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AI時代でも「手で作る」をやめないという話

生成AIが広がるなかで、ものづくりの意味が揺らいでいる。この記事は、その揺れにソフトウェア開発者でありインディーゲーム制作者でもある筆者がどう向き合ったかを、かなり率直に書いたエッセイだ。技術の話であると同時に、創作の手触りや、他人の評価に支えられてきた気持ちの行き場の話でもある。読後に残るのは、AI賛否の単純な対立ではなく、「それでも自分は何を作るのか」という切実な問いだと思う。

生成AIで崩れた気力と、Shadとの会話で戻ってきた視点

筆者のJoel Autersonは、まず自分がその週にかなり落ち込んだと明かす。爆発的に荒れたのではなく、気力や自制心がしぼんで、ティッシュペーパーを洗濯機にかけたあとみたいに、ぐしゃぐしゃに崩れた感覚だったという。少し持ち直したので、同じような状態にいる誰か、とくに未来の自分に向けて考えを書き残したい、というのが出発点だ。

原因として挙げられているのは、生成AIだ。筆者は、創作者の仕事がどんどん軽んじられ、AIによって消費されていることに強い嫌悪感を持っている。画像生成AIについては、芸術を装っただけのものに見えてしまい、恥ずかしくて近づきたくないというかなり強い言い方をしている。一方で、彼が主戦場としている programming の世界では事情がもっとややこしい。ここ数年でソフトウェアエンジニアの環境は大きく揺れ、周囲の圧力もあって、LLMのコード生成を受け入れる流れが強まっている。ただし筆者は、環境負荷や社会的な問題をひとまず脇に置いたとしても、コードアシスタントを使って書くこと自体が楽しくないし、出てきたものに自分の手触りがないので誇れない、と言う。

彼は小さな道具、たとえば shell script やちょっとした helper を作るのが好きだった。毎日使っていた git の branch 切り替えツールにも誇りがあったし、同僚に褒められるのも嬉しかった。しかし今では、そうした小物の多くが「プロンプトに頼めば誰でも手に入る」ものになり、自分の努力が薄れて見える。ゲーム開発でも似た感覚があり、Zach Gage が「ゲーム作りは音楽制作に近づいている」と書いたスレッドを見て、彼は打ちのめされた。長年かけてゲームを学んできたのに、それが無駄になったのではないか、と感じたからだ。

転機になったのは Shad との会話だった。Shad は筆者の好きな人物で、エンジニア兼デザイナーとして優れた仕事をしている。彼のアプリ Uncamera は、iPhone の raw sensor output と lookup tables を使って、後処理のフィルターではなく撮影段階からフィルムのような写真を作るカメラアプリだという。しかも、これは generative AI を一切使わずに作られている。Shad もまた、作る喜びの欠如や不安を抱えていたが、それでも更新を続けていた。そこに筆者は、自分との差を見た。自分はただ自己憐憫に沈んでいただけだと気づいたのだ。

そこで筆者は、自分はすでに「大変なやり方」で物を作っているのだと考え直す。C++で自作の game engine を作っている時点で、最速で勝つための道を選んでいるわけではない。Unity、Godot、Unreal のような既製の engine を使えばもっと早いのに、あえて faux-3D renderer のようなものを作っている。それは、そうしたやり方が好きで、作業の中で多くを学べるからだ。そう考えると、選択肢は大きく3つに絞られる。生成AIを使って「追いついた気分」になるか、完全にものづくりをやめるか、あるいは好きなやり方のまま、遅くても学びながら続けるか。筆者は最後の道を選ぶ。ゲームを作るのはそのためだし、何かを作るとは本来そういうことだ、と締めくくっている。

「効率で勝つ」ための道具ではなく、作る喜びそのものの話として読む

この文章で面白いのは、AIをめぐる倫理の是非を正面から裁くより先に、筆者が「楽しくない」と言い切っているところだと思う。生成AIの議論は、著作権や雇用、学習データの扱いに寄りがちだけれど、彼が引っかかっているのはもっと身体的だ。自分の手で組み立てた感じがしない。完成品に誇りを持てない。そこには、道具の性能が上がれば満足も増えるはず、という単純な図式が通用しないことがよく出ている。

しかも彼は、AIを使わないことを清廉さのポーズとして語っていない。むしろ、周囲の空気や競争圧力が現実にあることも認めている。ここが正直だ。LLM のコード生成が「かなりできる」のも事実だし、現場の人がそこに流れるのを外から簡単には責められない。だからこの文章は、AIを使う人を断罪する文章ではない。自分にとって何が喜びで、何が空洞化を起こすのかを、かなり個人的な温度で記録した文章だと受け取ったほうが近い。

「誰でも作れる時代」に消えるのは、作品より先に自己評価かもしれない

彼が一番刺されているのは、道具そのものより「自分のやってきたことの価値が薄くなる感覚」ではないかと思う。小さな shell script や branch switcher は、機能だけ見れば確かに代替できる。でも本人にとっては、毎日使うたびに「自分はこれを作れた」という確認でもあった。創作の価値は、市場価格だけで決まるわけではない。自分の手で作ったという記憶、周囲に認められた経験、そこで得た居場所感まで含めて成立している。

だからこそ、AIがその領域に入ってくると、失われるのは仕事量だけではない。自分の存在証明のほうが揺れる。これはソフトウェア開発に限らず、文章、イラスト、音楽、映像にも広がる話だと思う。ある種の仕事は「速く作れるか」より「この人が作る意味があるか」で支えられてきた。その意味が薄まると、人は成果物の競争に勝てなくなるだけでなく、作る理由そのものを見失いやすい。筆者の沈み込みは、まさにそこに触れた反応だろう。

それでも手を動かす、という選び方はかなり現実的だ

筆者の結論は、根性論ではない。生成AIを拒絶して苦行に耐える、といった話ではなく、もともと自分は遠回りを選ぶ人間だったのだから、そのまま続ければいい、という整理になっている。ここは強い。C++で自作 engine を作ることや、faux-3D renderer をいじることは、最短ルートではない。でもその遅さのなかで学べることがあり、作る過程に手応えがある。つまり、彼にとっては「遅いこと」が欠点である以前に、楽しさの条件なのだ。

この視点は、AIに仕事を奪われるかどうかという二択より、もう少し現実的かもしれない。すべてを効率化の尺度で測ると、作る行為はすぐに比較で腐る。でも、学びたい、触っていたい、途中の試行錯誤が好きだ、という欲求は残る。そういう人にとっては、AIを使うかどうかは思想より設計の問題になるはずだ。どこまでなら使っても自分が楽しいのか。どこから先は空っぽになるのか。筆者はそこを自分で引き直したのだと思う。派手な宣言ではないが、かなり実践的な線引きだ。


参考: Fuck it, make it anyway

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