第二次大戦期のEnigma暗号は、今も研究者を悩ませる題材だ。その中で、1941年7月10日に送られ、2005年から解読不能のままだったメッセージ「MVUEH」が、2026年になって突如ほどけた。しかも解いたのは人間の研究者ではなく、OpenAIの「GPT–6 Astra」だったというのが今回の核心だ。単なる暗号解読の成功例ではなく、AIがどこまで歴史資料調査と暗号解析を自律的に進めるのかを示す話として読むと面白い。
記事が扱うのは、ドイツ軍のEnigma暗号文「MVUEH」の解読成功だ。これは1941年7月10日に送られたメッセージで、無線局「2ny」から発信され、SS-TotenkopfのQuartiermeister部門の無線局Ibが受信した。Ib側の記録では、同日の受信メッセージ番号172として残っている。著者によれば、このメッセージは2005年以来ずっと解けていなかった。
同じ日には、別の未解読メッセージ番号173「SIPVX」があり、こちらは2017年6月9日にAlex Shovkoplyasが解読に成功している。ただし、そのときに見つかったEnigmaの鍵は、同日ほかのメッセージに使われた通常の鍵と少し違っていた。ローター順序は共通で512だったが、Stecker(プラグボードの配線)とRingstellung(リング設定)が異なっていた。それでも、その鍵ではMVUEHは開かなかった。
状況が動いたのは、Carter LefferがMVUEHの解読結果を送ってきたときだった。著者は、鍵と平文が正しいことをすぐに確信したという。今回の鍵は、SIPVXや同日の他メッセージとはかなり違い、ローター順序まで異なっていて、512ではなく253だった。しかも平文は、SIPVXのものとほとんど同じだった。両者の長さは12文字違い、MVUEHは82文字、SIPVXは94文字である。この差は、MVUEH側でBitteという語を暗号化する際にBtteと誤記されたことと、SIPVX側では送信者の署名Waschbuschが繰り返されていたことが原因だと説明されている。
さらに調べると、元のメッセージ用紙から転記されたMVUEHの暗号文には複数の誤りがあったことがわかった。加えて、Enigmaの左端のローターが72文字目で転回していた。左ローターの転回はめったに起きず、解読を難しくする要因として知られている。こうした事情が、長年の未解読の理由だったのかもしれない、と著者は見ている。
いちばん驚くべき点は、これをGPT–6 Astraが完全に自力でやったことだ。Carter Lefferは、Crypto Cellar Researchのサイトにある未解読メッセージを解けるか試すよう指示しただけだった。GPT–6 Astraはまずサイト上の未解読文を分析し、最も有望なのはNr.172のMVUEHだと判断したうえで、Nr.173のSIPVXの平文も関連しているかもしれないと推測したという。その後、ROSENOW ROSENOWという繰り返し地名をcrib(平文の手がかり)として使う方針に絞り、EnigmaシミュレータとEnigma Bombeを動かすためのPythonとC++のソフトウェアまで自分で用意した。結果として、正しい鍵と平文に到達した。
著者は、GPT–6 Astraのログをまだ解析中で、どうやってこの解読を進めたのか詳細を確かめている最中だとしている。ただ、途中でドイツ連邦公文書館の電文コレクションについての記述まで拾っていたらしく、RS 3–3/20aとRS 3–3/63bという資料番号を挙げている。著者自身がその資料を何週間もかけて調べたのに対し、AIは2日で同じような足場を作った、というのが彼の驚きだ。
この話でまず面白いのは、AIが暗号文を一発で割ったというより、暗号解読とアーカイブ調査を一つの作業として扱っている点だと思う。MVUEHの鍵を見つけたこと自体も大きいが、GPT–6 Astraはその前段として、サイト内の未解読メッセージを眺め、近い平文の候補を探し、資料の出どころまで気にしている。暗号の世界では、鍵を当てるだけでなく、どの文書群に属するか、どの送受信系統か、誤記がありそうかを見抜く力がものを言う。そこを機械が自然にやっているのが怖い。
しかも著者は、AIが人間の研究者っぽく振る舞ったことに感心している。RS 3–3/20aやRS 3–3/63bという公文書館の資料番号を挙げ、原本画像はまだ見つかっていないとまで書いているあたり、単なる計算機というより、調査メモを残す研究助手のようだ。もちろん、ログにそう出たからといって、どこまで本当に理解していたかは別問題だと思う。それでも、解くべきものを選び、手がかりを作り、外部資料まで当たりに行く流れは、既に人間の「作業手順」をかなり置き換えている。
著者が強調しているのは、GPT–6 AstraがROSENOW ROSENOWをcribにしたことだ。Enigma解読では、平文の一部を仮定して鍵を絞るやり方が昔から使われる。繰り返しの地名や定型句は、まさにそうした手がかりになりやすい。今回の平文がSIPVXとほぼ同じだったことも、AIにとっては大きな追い風だったはずだ。短い文や似た文面が並んでいれば、機械は候補を機械的に広く試せる。
ただ、ここには人間側の偏見も混ざっていると思う。未解読文が長年残っていると、人は「これは特別に難しいはずだ」と考えがちだが、実際には転記ミスや誤記、ローター転回のような地味な要因で解けなくなっていることがある。GPT–6 Astraはそこを、感覚ではなく探索問題として扱ったように見える。正面から「珍しい文書」を追うのではなく、似た文面や繰り返し要素を材料に組み立て直したわけだ。暗号解読の本質が、派手なひらめきより大量の仮説検証にあるなら、AIはかなり相性がいい。
この件が示すのは、古典暗号の解読がAIの腕試しにちょうどいい、ということだけではないと思う。むしろ、研究の入口と出口の両方をAIが支え始めている点が重要だ。入口では、未解読群から有望な対象を選ぶ。出口では、得られた結果が正しいかを、関連文書やアーカイブ情報と突き合わせて確認する。人間がやっていた「探す」「絞る」「照合する」の連続を、かなり自律的に回している。
ただし、だからといって人間の役割が消えたわけではない。著者は最終的に、ログを読み、資料番号を確認し、どこまで本当にアクセスできたのかを慎重に見ている。ここは大事だと思う。AIは解けても、何を見てそう判断したのか、どの情報を根拠にしたのかを後から追える形で残さないと、研究としては危うい。特に歴史資料や暗号研究では、答えそのもの以上に、答えに至る経路が価値を持つからだ。
私がこの話を面白いと感じるのは、AIが「人間の代わりに答えを出した」からではなく、「人間が何週間もかけるような探索を、2日で同じ土俵に乗せた」からだ。そこまで来ると、今後の暗号研究や文書解析では、AIは補助ツールというより、探索の初速を決める実働部隊になっていくのではないかと思う。人間は最後に判断するだけ、というより、AIが出した候補をどう検証するかが新しい仕事になる。今回のMVUEHは、その境目がかなりはっきり見えた事例だった。
参考: The MVUEH Break