RSAの整数を分解する話は、ふだんの製品ニュースより地味に見えるかもしれません。けれど、公開鍵暗号の現実的な強さを測るうえでは、こうした「どれくらい大きな数が割れるのか」がとても重要です。今回の元記事は、RSA-896というチャレンジ数を、Claudeを使ってGPU向けにCADO-NFSを移植しながら因数分解したという報告でした。しかも単なる机上の実験ではなく、最大2048台のGPUを使うデータセンター規模の計算として実行された点が目を引きます。
元記事を書いたStephen A. Weisは、RSA-896というRSAのチャレンジ数を、2026年9月19日にClaudeを使って因数分解したと述べています。RSA-896は、その名の通り896ビットのRSAチャレンジ数です。記事では「More details will follow.」とあるだけで、ここではまだ詳細は多くありませんが、少なくとも結果としてこの数は素因数分解された、というのが中心の報告です。
その過程でClaudeは、CADO-NFSをGPUで動くように移植する作業に使われました。CADO-NFSは、General Number Field Sieve(GNFS)という、非常に大きな整数を分解するための代表的アルゴリズムを実装したソフトウェアです。GNFSはRSAのような数を割るときの定番手法ですが、計算量が重く、並列化や実装の工夫がものを言います。記事によれば、Claudeはこの移植作業を助け、さらに「regular jobs」の合間の空き時間に回せる低優先度ジョブとして、最大2048台のGPUからなるファリートで計算をオーケストレーションしました。
計算は10日間にわたって実行され、その間にAnthropic内部で約30 GPU-years分の計算資源を消費したと書かれています。要するに、実時間では10日でも、GPUの総量としてはかなり大きな仕事だったわけです。ここで重要なのは、これはGNFSそのものを速くした話ではないと明言している点です。記事は、この作業がGNFSの実行時間を本質的に改善したわけではなく、また実運用中のRSA-2048鍵の安全性にも影響しないとしています。
一方で、RSA-1024鍵については話が変わります。記事は、データセンター規模のGPU群を持つ多くの主体にとって、RSA-1024は脆弱だと示すものだと述べています。つまり、この実験は「今すぐRSA-2048が危ない」という警告ではないものの、「古いRSA鍵はかなり現実的に危うい」というメッセージを補強する材料になっている、という位置づけです。最後に記事は、RSA-896の具体的な素因数 p と q を掲載しており、実際に分解が完了したことを数字で示しています。
この話でまず印象に残るのは、RSAを割ったこと自体よりも、そのやり方です。暗号研究の世界では、しばしば「理論的には可能」と「現実にやる」の間に深い溝があります。今回の報告は、その溝を埋めるのに必要なのが、もはや研究室のワークステーションではなく、空き時間を束ねたデータセンター級のGPU群だと示しているように見えます。2048台という数は象徴的で、単に強力なGPUを何枚か並べただけでは届かないところまで来ていることが伝わります。
同時に、記事が「GNFSを意味のある形では速くしていない」とわざわざ書いているのも面白いところです。これは、暗号を破る技術が飛躍的に進歩したというより、計算資源の集め方と、既存ソフトウェアを別のハードウェアに載せる実務力が効いた、という意味合いが強いのだと思います。つまり、ブレークスルーの主役は数学そのものではなく、実装と運用です。ここに現代的な怖さがある。アルゴリズムが変わらなくても、計算基盤の都合で「できること」が変わるからです。
元記事は、RSA-2048の安全性には影響しないと明言しています。この線引きは大事です。誤解しやすいのは、「RSA-896を割ったなら、次はRSA-2048も危ないのでは」と短絡してしまうことですが、暗号の安全性はそんなに単純ではありません。ビット数が少し増えただけで難易度は急激に上がります。だからこそ、RSA-1024とRSA-2048の間には、感覚以上に大きな差があります。
それでも、RSA-1024については「多くの主体にとって脆弱」と言われる段階に来ている、というのがこの報告の重みだと思います。ここでいう「多くの主体」とは、国家レベルの超巨大設備を持つ存在だけではなく、データセンター級のGPUを回せる組織全般を指しているのでしょう。つまり、古い証明書や長年放置された装置、更新されない埋め込み機器のような領域では、RSA-1024がまだ残っていても不思議ではありません。そういう場所に対しては、理論上の警告では足りず、実際に割れるという事実が圧力になります。
この件で私が気になるのは、Claudeがどこで効いたのかです。記事だけを見る限り、Claudeは数学的な発見をしたというより、既存のCADO-NFSをGPU向けに移植し、分散実行の面倒を引き受けたように読めます。ここには、生成AIが得意な領域がよく出ています。ゼロから新理論を作るより、長くて壊れやすい実装を別環境に持っていく、あるいは手順の多い作業をつなぐ。そういう「接着剤」の仕事です。私はここに、いまのAIの実用性がかなり率直に出ていると思います。
ただし、その価値は小さくありません。暗号研究や計算科学では、アイデアがあっても実装の移植で止まることが多いからです。GPUに載せるにはメモリの使い方、並列化、ジョブ管理、空き時間の活用まで考えなければいけません。人間が全部やると時間がかかる領域で、Claudeが作業の摩擦を減らしたのなら、それは十分に意味があります。逆に言えば、AIは「暗号を理解して破る」のではなく、「既に破れる条件を現実の計算資源に落とし込む」ところで強いのだろう、という見方もできます。
RSA-896の因数分解そのものは、研究成果としては明確です。ただ、もっと重要なのは、こうした話がもはや遠い将来の机上演習ではない、という感覚を読者に残す点だと思います。RSA-2048が当面は安全でも、RSA-1024はもう「十分古いから危ないかもしれない」では済まなくなってきています。更新されずに放置された鍵、古いVPN装置、互換性のために残った設定。そうしたものが、ある日突然、現代の計算資源に対して脆くなる。
そして、今回のような報告が出ると、暗号の世界では「何が破れたか」だけでなく、「どの規模の設備なら破れるか」が具体的に議論しやすくなります。そこが重要です。安全か危険かを二択で語るのではなく、どの運用が現実的にまずいのかを示せるからです。私はこの記事を、RSAの歴史の小さな達成というより、古い暗号資産の棚卸しを急がせる現実的な警報として読むべきだと思います。
参考: RSA-896