子どもが本を読まなくなった、という話は昔から「最近の若者は」で片づけられがちだった。だが今回の元記事は、その手の懸念を単なる懐古主義として退けない。Timesのコラムニスト、James Marriottの新刊『The New Dark Ages』を手がかりに、読書離れ、テレビ、スマホ、そして注意力の縮み方を一本の流れとして描いている。面白いのは、犯人を安易に「スマホ」と決めつけず、もっと前から起きていた変化として話を組み立てている点だ。だからこれは、媒体の移り変わりを論じる本の紹介であると同時に、私たち自身の生活習慣へのかなりきつい鏡でもある。
元記事の書き出しは、著者Ed West自身の親としての不安から始まる。10代の男の子たちの画面には、YouTubeのくだらない企画動画が次々に流れ、昔の90年代の「退屈なテレビ」さえ、いま振り返ればドストエフスキー並みに複雑だったように見える、と皮肉る。さらにWestは、子どもたちが読書をしなくなっていることが、周囲の親の間で「気がかり」から「不安」、ついには「パニック」へ変わりつつあると書く。
そこから話題は、James Marriottの新刊『The New Dark Ages』へ移る。Marriottは、もともと「誰も本を読まなくなった」ことをSubstackで人気の文章として書き、それを50,000語ほどの本にまとめた。Westはこの本を、説教臭い「urgent」な本だとは言わないが、面白く、情報量があり、筋の通った主張をしていると評価する。そのうえで、彼が描く世界観はかなり暗い。
Marriottの家庭では文学が宗教のようなものだった。子どもの頃から家族は、悲劇も些細な揉め事も、Thomas HardyやPhilip Larkinを引きながら理解していた。Shakespeareの舞台を幼い頃から見に行き、誕生日まで祝うような環境だったという。そんな彼にとって、大学周辺で聞こえ始めた「読解力が落ちている」「本を読まない人が増えている」という噂は、ただの懐古では済まなかった。やがて実際のデータもそれを裏づけ、学生の読解力低下や、娯楽として読書する人の減少が示される。最初はスマホが犯人に見えたが、Marriottはそこからさらにさかのぼり、テレビこそが大きな転換点だったのではないかと考える。ここで引き合いに出されるのがNeil Postmanの『Amusing Ourselves to Death』で、テレビは軽薄さと魅力的な人物像に偏り、理性的な公共空間を壊すとPostmanが警告していた、という筋書きだ。
本の前半では、識字率の歴史もたどる。古代末期に一度落ち込んだ識字率は、12世紀ごろから北イタリアの都市を中心に上向き、印刷術の発明で急伸した。だが初期の出版業者は需要を読み違え、15世紀末には20,000冊刷った本が売れず、教皇Sixtus IVに助けを求めたローマの出版社の話まで出てくる。さらに宗教改革は聖書を読むことを重視し、スウェーデンではルター派教会が読み書きできない人の結婚を禁じた。啓蒙主義は、読者どうしの知的共同体を作るだけでなく、階級や性別、人種の枠を越えて他者の内面を想像する力を広げた、とMarriottは見る。Samuel Richardsonの『Pamela』やOlaudah Equianoの回想録がその例だ。つまり読書は、人を賢くするだけでなく、社会をより平等にしてきた、という主張である。
その後、20世紀半ばに識字のピークが来るが、1948年にはアメリカの家庭でテレビ所有率は1%だったのに、1954年には半数を超えた。テレビは当初、王室戴冠式のような共同体のイベントを共有する装置だったが、すぐに生活を居間のスクリーン中心に作り替えた。椅子やソファの向きが互いではなくテレビへ向くようになり、家族は同じ部屋にいながら画面の前に固定された。Westは、1956年にITVの番組が遅れたとき、視聴者の3分の1が空の画面をぼんやり見続けていたという話まで引く。さらに1995年には、Robert Putnamがアメリカで余暇の40%が画面の前で費やされていると書いた。オランダでは1950年代から70年代にかけて読書時間が週5時間から3.5時間へ落ち、ノルウェーの徴兵制を使った研究では、ケーブルテレビの普及が進むほどIQが下がり、調査は「commercial televisionへの露出が高いほど認知能力が低い」と結論づけた。
そして2007年、スマートフォンが登場する。Marriottはテレビにも害はあるが、少なくとも作品としての芸術性があり、ある程度の集中を要する、と見る。一方スマホは、多くの人が好きというより嫌っており、それでも手放せない。平均的な人は1日に144回スマホを確認するという。著者自身も、読みたい気持ちからスマホを戸棚や洗濯かごに隠したり、「smartphone prison」に閉じ込めたりしたが、最後はダムフォンに乗り換えてようやく抜け出した。ところがその間にも、注目の向きはYouTubeの巨大スターやTikTokへ移り、短時間で何百本もの動画を流し見る習慣が広がる。記事は最後の部分で、ポップソングまでもが短くなっている、と示唆して終わる。
この本の見立てでいちばん鋭いのは、スマホを元凶として一発で片づけないことだと思う。実際、私たちはよく「全部スマホのせい」と言うが、元記事が描くのはもっと長い浸食だ。テレビがまず余暇の置き場を変え、家族の向きや会話のリズムを変え、その延長線上にスマホがある。スマホは突然現れた悪魔ではなく、長年かけて育った受動的な視聴習慣の先にある。だから本当に問うべきなのは、端末そのものより、どういう娯楽に私たちの注意を預ける社会を作ってきたのかだと思う。
ただし、ここで注意したいのは、読書量の減少をそのまま文明の衰退に直結させすぎないことでもある。読書は確かに、他人の内面を長く追う訓練になる。だが、活字に親しむ能力と、思考の質を単純に同一視すると、話が少し雑になる。人は本を読まなくても、長文の議論に耐えることはできるし、逆に本を読む人でも短絡的な判断はする。元記事の論旨は強いが、そこで少し立ち止まるべきだろう。読書の価値を守ることと、読書していない人を劣った存在として扱うことは違う。前者は社会設計の問題で、後者はただの見下しだ。
Marriottが強調するのは、読書が他者への想像力を広げた、という点だ。これはきれいごとではない。長い文章を追うとき、人は自分の感情の即時反応をいったん脇に置き、他人の都合や文脈を頭の中で組み直す。そこに、現代の即答文化とは違う回路がある。だから本を読む力が落ちると、単に教養が減るだけでなく、相手の話を途中で切らずに聞く力、保留して考える力も弱くなるのではないかと思う。
ここで面白いのは、テレビが一方的に悪く、読書が一方的に善い、という話にしていない点だ。テレビにも芸術はあるし、集中して見る作品はある。だがスマホは違う、とWestは書く。これはかなり実感に近い。テレビは少なくとも「見る時間」が始まるが、スマホは気づけばつかんでいる。予定された鑑賞ではなく、隙間を食い尽くす装置になりやすい。だから問題は娯楽の有無ではなく、注意力が断片化されることだろう。読書を勧めるべきなのは、道徳的に高尚だからではなく、注意を一つの対象に留める訓練になるからだ。
元記事全体に漂うのは、単なる文化評論ではなく、親世代の焦りだ。子どものYouTubeの画面に呆れ、読書離れの話を友人同士で共有し、やがて「何かまずいことが起きている」と感じる。この感情はたぶん誇張ではない。子どもたちは、私たちが子どもだった頃よりも、圧倒的に多くの選択肢の中で即時的な刺激を食べている。しかもそれは学校でも家庭でも止めにくい。だから「本を読まない」のは単なる趣味の違いではなく、家庭内で共有される時間の質が変わったサインとして読むべきだと思う。
ただ、悲観が強い文章ほど、救いもまた必要になる。Marriottはダムフォンに変えて改善したと書くが、それは個人の意志だけでは再現しにくい。問題は、全員が意識高くなることではなく、注意を奪う設計に対抗できる環境をどう作るかだ。たとえば家庭でスマホを別室に置く、学校で長文を読む時間を残す、アルゴリズムが流し込む短い刺激を前提にしない時間を生活の中に作る。地味だが、こういう積み重ねしかないのではないか。元記事を読んでいて一番怖いのは、私たちがすでに「長く読む」ことを例外的な行為だと感じ始めていることだった。