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LinkedInでAI下書きを見抜かれる話が、思った以上に切実だった

SNSの中でLinkedInだけが妙に生き残っている、という少し皮肉な出発点から始まる文章だが、そこで筆者が言いたかったのは単なる愚痴ではない。いま多くの人が仕事の発信や近況共有にAIを使い始め、その結果として「読めるけれど、本人らしくない文章」があふれている。元記事はその違和感をかなり露骨に言語化していて、しかもLinkedInという場の性質まで絡めているので、AI時代の文章の問題が見えやすい。書き手は便利さを否定していないのに、なぜ「自分の声」を手放すと損をするのかをかなり強く突いている。

LinkedInで増える「AIっぽい投稿」に、筆者が我慢ならなくなった

元記事の筆者はまず、LinkedInが自分にとって「重要なソーシャルネットワーク」になってしまったと打ち明ける。ただし、それはLinkedInが優れているからではない、とすぐに釘を刺す。むしろ筆者の比喩では、LinkedInは「ソーシャルネットワーク界のジェラルド・フォード」だという。周囲のSNSが次々と崩れていく中で、少し不器用で地味ではあるが、完全に腐ってはいない。だからこそ居場所として残っている、という見方だ。

そのうえで筆者が本題に入る。LinkedInでは、LLMを使って投稿文を生成する人が増えすぎている、と。しかもそれは投稿者だけの責任ではなく、LinkedIn自身が「AIで書き直す」ことをすすめてくるので、使いたくなる空気があるとも指摘する。だが筆者の感想はかなり辛辣で、そうやって作られた文章はひどく読みにくいという。絵文字がやたら多い、1文だけの短い段落が並ぶ、「it’s not just… but also」のような定型句が頻発する、使い慣れていない人まで em-dash を乱用する、といった“AIの癖”が目につきすぎるのだという。

ここで筆者が言いたいのは、「文章の出来が悪い」だけではない。LLMで書かれた投稿は、慣れている人にはすぐ分かる。だから読み手は、見た瞬間に「これは本人の言葉なのか」と疑い始める。筆者はそれを「your intellectual fly is open」と表現している。つまり、知的なズボンのチャックが開いているようなもので、本人は気づいていないが周囲には見えてしまう、というわけだ。しかも困るのは恥ずかしいだけではない。書き手の声が消えると、その人が本当に言っている内容なのか、LLMがそれらしく膨らませた“生成ファンフィクション”なのか分からなくなる。結果として読み手は離脱する。

筆者はLLMそのものを否定しているわけではない。むしろブレインストーミングや文章理解には非常に有用で、編集者としても優秀だと認める。ただし、LLMは「あなた」ではない。下書きや校正に使うのはいいが、最終的に自分の発信として出す文まで委ねると、内容以前に「この人の話を聞いている感覚」が失われる。だから筆者は、少なくとも自分のメッセージに信用を持たせたいなら、自分の声で書け、と呼びかけている。

「AIで整えた文章」が、かえって信用を削る理由

この文章で面白いのは、筆者がAIの能力不足を責めるより先に、「読み手の側はもう慣れてしまった」と見ている点だと思う。ここは重要で、問題はAIがうまく書けないことだけではない。むしろ、そこそこ整って見えるからこそ、かえって“人工的な整い方”が浮く。今の読者は、妙に均質な段落、どこかで見たことのある言い回し、感情の山が薄いのにだけは流麗な文章に、かなり敏感になっている。筆者はその感覚を「LLM tells」と呼んでいるが、これはもう一種の読み手のリテラシーになりつつあると思う。

しかもLinkedInは、その違和感がいちばん目立つ場所でもある。雑談中心のSNSなら多少の大げささは流されるが、LinkedInでは投稿がそのまま仕事の信用や人となりの評価に結びつく。だから、AIで文章を“無難”にすると、無難になるどころか、むしろ人格の輪郭が消えてしまう。筆者が問題にしているのは、文法でも長さでもなく、「この人は実在しているのか」という感触が薄れることだ。これはかなり現代的な不信だと思う。

LinkedInの「AIで書き直す」は、便利さと相性の悪い誘惑だ

元記事では、LinkedIn自身が「rewrite it with AI」と促してくることにも触れていた。ここには、プラットフォーム設計としての難しさがあると思う。投稿を書くハードルを下げる機能は、たしかに利用者を助ける。文章が苦手な人でも発信しやすくなるし、短時間で整った形にできる。けれど、あまりに簡単に“整えすぎる”と、発信の価値そのものが薄くなる。投稿が増えるほど中身より形式が似ていくなら、SNSは情報の市場ではなく、テンプレートの工場になってしまう。

筆者の怒りは、単に「AIを使うな」ではなく、「自分の負担を減らすために、なぜ自分の信用まで差し出すのか」という点に向いているように読める。ここはかなり耳が痛い。便利な道具は、使うほどに“自分で考えた感”を節約させる。だが発信では、その節約がそのまま説得力の損失になることがある。とくに専門職や転職文脈では、何を考えている人なのかを知りたいのに、AIが平均化した文章だけが出てくると、読者は安心するどころか不安になるはずだ。

LLMは編集者として使い、著者としては使わない、という線引き

筆者はLLMを「ブレインストーミングには便利」「理解の補助には最高」「編集者としては驚くほど優秀」と評価している。この部分は、AI嫌いの反射的な拒否ではないところが大事だと思う。むしろ、どこまで任せるべきかをかなり実務的に線引きしている。文章の推敲、言い回しの調整、要点整理のような作業には向いている。でも、そこから先の「誰が語っているのか」は別問題だ、という整理だ。

この線引きは、書く人だけでなく読む人にも影響する。仕事の報告、業界の所感、採用や営業の自己紹介まで、発信は今やほとんどが半公開の名刺みたいなものになっている。そこでLLMを著者にしてしまうと、文章はきれいでも経験が抜ける。経験が抜けると、具体性が消え、具体性が消えると、読む意味が薄くなる。筆者が最後に「自分の声に自信を持て」と言うのは精神論に見えて、実はかなり実務的だと思う。文章の個性は飾りではなく、読み手がその人を信用できるかどうかの手がかりだからだ。

「本人らしさ」が残る文章は、これからいっそう価値が上がる

この手の話題は、AIがまだ新しいから騒がれているだけ、と片づけられがちだが、そうはならない気がする。生成文が増えれば増えるほど、逆に人間の癖や迷い、少し不器用な言い回しが信頼の証拠になるからだ。少し言葉が荒くても、文が長くても、そこに本人の視点が見える文章のほうが読みたくなる場面は増えていくと思う。きれいに整えた文より、読んだあとにその人の顔が浮かぶ文のほうが強い。

筆者の投稿は、AIそのものへの警鐘というより、「発信の主体をどこに置くか」という問いに近い。便利だからと任せすぎると、出力の見た目は整っても、中身の責任がぼやける。仕事の世界では、そのぼやけ方が意外と致命的だ。だからこそ、LLMを使うにしても、最後に残る一行だけは自分で決めるべきだと思う。そこで出る言葉が、その人の信頼になる。


参考: Your intellectual fly is open | The Observation Deck

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